「老人有り、哺を含み腹を鼓うち、壌を撃ちて歌ひて曰はく、『日出でて作し 日入りて息ふ 井を鑿ちて飲み 田を耕して食らふ 帝力何ぞ我に有らんや』」ご存知、司馬遷の「十八史略」の「鼓腹撃壌」の一部です。この挿話の意味は概ね次の様に説明されています。「よい政治が行われ人々が平和で豊かに暮らしていること、太平の世の形容」
果してそこで話は終わるのでしょうか。それとは別に、こんな考えもあるのではないでしょうか。「権力は、権力の存在を感じさせないことが、最良の権力の行使である」老人の言葉「帝力何ぞ我に有らんや」の言葉尻をとらえてのことですが、それというのも「平和で豊かな太平の世」を作り出すのは、強力な権力が背景にあって初めて実現可能だからです。これ無くして、人は所詮「野に放たれた狼」にすぎませんから。狼の棲みかに「平和」も、「豊か」も、「太平の世」もありません。周辺をちょっと見渡せば、世界中にこの実例は山ほどあります。もしかすると、司馬遷が本当に言いたかったのはそのことではないのでしょうか。
さて、翻って私たちの社会はどうでしょうか、「平和で豊かな太平の世」の生活が実現していると思って間違いないでしょう。「医療」「年金」「生活保護」等の社会福祉政策に多額の国費が投じられています。一方でその様な財源は、結局国民の負担に帰しますから、「過去」か「現在」か「将来」のいずれかの国民が「税金として」負担しなければなりません。その税金とても、わが国では、主要な税目は申告納税制度が採られていていますので、ここには、国家権力が顔を出す余地はほとんど有りません。申告納税制度とは、法律に定める一定要件が充たされると、納税義務が生じ、自ら納税額を計算してこれを納付して「お終い」という制度です。また、法律を作る人達、国会議員のことですが、増税には極端に慎重です。使う方も、取る方も「老人の歌の世界『鼓腹撃壌』」がそのまま実現しています。
ここで、忘れてはならないのは、私たちの今の「平和で豊かな太平の世」は「強力な権力の行使」があって初めて実現しているものだという事実です。しかも、それは巧妙に目隠しされて、私達には、権力の行使と映らないやり方で行われているということです。申告納税制度の下においても、実際は、税金を国民が自ら進んで納めているわけでは有りません。徴税は強力な国家権力を背景に行われているのです。その国家権力が公正に行使されればまだ良いのですが、必ずしもその様には成っていないのです。最高裁判例(平成22年7月6日最高裁第3小法廷)に見られる様に、理論のすり替えや、財産権の侵害、権力の濫用が稀にではあっても(実は頻繫に)起こっているのです。前述の通り、一定要件を充足すれば、納税義務が生ずることは間違い無いのですが、問題はこの《法律の要件》です。微に入り、細に入り、一筋縄にはいかないように出来ています。また、課税公平の上からは許されないことなのですが、法律の解釈には残念ながら幅が有ります。そして、これはすべて国家権力の側に有利に作用します。
私どもが掲げる「安心をお届けする」とは、国家権力の介入を許さない「厳格な税法の適用」です。これが結果として最も安い税金になることは説明するまでも有りません。私どもが目指すところは結局「一円でも安い税金」の追求、即ち「節税」です。《鼓腹撃壌》の世に安住する私たちには、普段、気づきにくい国家権力ですが、ここにも十分に配慮した仕事が必要だと考えています。企業は沢山のリスクを抱えながら成り立っています。その中のほんの一部かもしれませんが、私どもが請け負うことが出来る仕事は、この「安心をお届けする」ことではないかと思っています。